暗黒舞踏:土方巽と大野一雄が拓いた地平 - 起源、身体哲学、地域性、そして現代への影響
暗黒舞踏とは何か:既存の枠を超えた身体表現
暗黒舞踏、通称「舞踏(ぶとう)」は、20世紀後半の日本で誕生した独自のダンス様式です。従来の西洋的な舞踊観や身体観に疑問を投げかけ、人間の内面や根源的な生(あるいは死)に向き合う身体表現として、世界的に強い影響を与えてきました。この表現は、単なるダンス技術の体系にとどまらず、哲学や思想、日本の文化的・歴史的背景と深く結びついています。本稿では、その起源、創始者たちの思想、特徴的な身体哲学、そして地域性との関連や現代への影響について掘り下げてまいります。
起源と歴史的背景:戦後日本の土壌から
暗黒舞踏は、主に土方巽(ひじかた たつみ、1928-1986)と大野一雄(おおの かずお、1906-2010)という二人の舞踊家によって開拓されました。1950年代後半から1960年代にかけて、彼らは当時の日本の社会状況、特に戦後の混乱や高度経済成長期の歪みに対する感覚を、身体を通して表現しようとしました。
土方巽は秋田県出身で、日本の東北地方の風土や伝統、そして自身の身体性に対する深い考察から、独自の舞踏観を形成しました。「病める舞踏」や「東北歌舞伎」といった概念は、既存の美意識や健康な身体といった価値観を転倒させ、抑圧されたものや異形のものの声なき声を掬い上げようとする試みでした。1959年の「禁色」発表は、既存のダンス界に大きな衝撃を与え、暗黒舞踏誕生の狼煙となりました。
一方、大野一雄は横浜を拠点に活動し、土方巽よりも早い時期からダンスを始めましたが、土方との出会いを機に自身の表現を深化させていきました。彼の舞踏は、内なる魂や生命そのものの輝きを表現することに重きを置き、「存在そのものが踊る」といった哲学を体現しました。その穏やかでありながら根源的な身体性は、多くの人々に感動を与えました。
この時期の日本の芸術シーンは、既成概念を破壊し、新しい表現を模索する動きが活発でした。暗黒舞踏もまた、こうした時代の潮流の中で、欧米のモダンダンスやコンテンポラリーダンス、さらには演劇や美術とも交流しながら、独自の道を切り拓いていったのです。
創始者たちの思想と身体哲学
暗黒舞踏の根幹には、西洋的な身体観(理性によって統御される身体、明確な形を作る身体)とは異なる、独自の身体哲学があります。
土方巽の思想は、「身体の外部への思考」「肉体の反乱」といった言葉に集約されます。彼は、身体を単なる物理的な実体ではなく、外部の世界や記憶、あるいは他者の存在と深く結びついた「場」であると考えました。身体が自らの意志によって動くのではなく、内なる「亡霊」や外部からの「指令」によって動かされる、といったイメージは、彼の舞踏の特徴的な動きや表情に表れています。また、東北という特定の地域、自身の故郷の風土やそこで生まれ育まれた身体感覚が、彼の舞踏の身体性に深く根差していることは無視できません。秋田弁のイントネーションや身体のリズムが、そのまま彼の舞踏の動きに反映されているという指摘もあります。
大野一雄の舞踏は、より内面的で、魂や生命の根源に焦点を当てます。「私は踊らない、私の内なるものが踊るのだ」という言葉に表されるように、彼の身体は、特定の形式や技術を追求するのではなく、自身の存在そのもの、あるいは他者(母親、神、歴史上の人物など)への共感を通して動かされます。彼の代表作「ラ・アルヘンチーナ頌」は、アルゼンチンの伝説的な舞踊家へのオマージュとして創られましたが、そこには彼自身の人生観や死生観、そして普遍的な生命への讃歌が込められていました。彼の横浜での活動も、港町の異国情緒や歴史と無縁ではないでしょう。
両者のスタイルは対照的でありながら、既存の身体観から逸脱し、人間の内面や根源的なものに向き合うという点では共通しています。白塗りの化粧、剃髪、ほとんど裸に近い衣裳といった外見的な特徴も、彼らの身体哲学に基づいています。これは、個性を消し去り、身体を普遍的なもの、あるいは外部からの影響を受けやすい「空虚な器」として提示する試みであったと考えられます。
身体技法と表現:内なる世界を可視化する
暗黒舞踏には、バレエやモダンダンスのような体系的な「技術」として確立されたメソッドは存在しないと見なされることが多いです。しかし、そこには紛れもない独自の「身体の探求」と「表現のための鍛錬」が存在します。
特徴的な動きとして挙げられるのは、極端にスローな動き、関節を脱臼させたかのような身体の変形、重力に逆らわず地面に沈み込むような姿勢、そして苦痛や内面の葛藤を表すかのような表情です。これらの動きは、表層的な美しさや軽やかさを追求するのではなく、身体の内側、あるいは身体の深い記憶層に存在するものを掘り起こし、可視化しようとする試みです。
土方巽は、弟子たちに具体的な動きを指示する際に、「枯れ葉になれ」「土塊になれ」「部屋の中の家具になれ」といった、イメージや感覚を喚起する言葉を多用したと言われています。これは、身体を既成の形に当てはめるのではなく、内なるイメージや外部からの刺激によって身体が自ずと変容していくプロセスを重視したことの表れです。また、「足裏」の感覚や、地面との接地面から伝わる情報を極限まで研ぎ澄ますことも重視されました。これは、身体と大地、あるいは身体と根源的なものとの繋がりを意識する上で重要な要素です。
大野一雄は、特定の技術体系よりも、自身の内面世界や記憶、感情を身体を通して率直に表現することを重視しました。彼の踊りは即興性が高く、その場の空気や観客との間に生まれる共振によって形作られていきました。しかし、その即興性も、長年の身体への問いかけと、自身の内面世界との対話によって培われたものです。
地域性と文化的背景の深層
暗黒舞踏は、単に個人の表現として生まれただけでなく、日本の特定の地域性や文化的背景と深く結びついています。
土方巽の舞踏における東北の風土の影響はすでに述べましたが、それは単なる郷愁に留まりません。近代化の波に取り残され、忘れ去られようとしていた地方の身体、あるいは「日本の身体」の根源を探求する視点があったと言えます。農耕社会に根差した身体感覚、自然との一体感、あるいは東北地方に伝わる民間信仰や土俗的なものへの関心は、彼の舞踏に独特の深みを与えました。
一方、大野一雄は横浜という港町で活動し、国際的な文化交流やキリスト教信仰といった異なる要素を取り入れていました。彼の舞踏が持つ普遍性や、生命そのものへの肯定的なまなざしは、こうした背景とも無縁ではないでしょう。
また、舞踏が生まれた1960年代は、日本の伝統文化が見直される一方で、欧米からの新しい文化が流入し、価値観が大きく揺れ動いた時代でした。能や歌舞伎といった伝統芸能への関心(反発も含む)や、当時盛んだった前衛芸術運動との関係性も、舞踏の形成に大きな影響を与えています。既存の「日本人らしさ」や「日本の身体」を問い直す中で、舞踏は生まれ、独自の身体言語を確立していきました。
国内外への影響と現代
暗黒舞踏は、その誕生から間もなく、国内外の芸術シーンに大きな影響を与え始めました。特に1970年代以降、土方巽や大野一雄は欧米で高い評価を受け、ドイツの「タンツテアター」や、アメリカ、フランスなどのコンテンポラリーダンスに影響を与えました。身体の内面に深く分け入り、社会や歴史、あるいは存在そのものを問う舞踏の姿勢は、当時のダンス界に新たな視点をもたらしました。
現在、舞踏は世界各地に広がり、多様なスタイルを持つ舞踏家が活動しています。しかし、その多様性の中にも、創始者たちが投げかけた「身体とは何か」「人間とは何か」という根源的な問いへの探求や、既存の価値観に囚われない自由な表現といった精神は受け継がれています。日本の伝統芸能や現代美術、演劇など、他の分野との交流も続いています。
探求の可能性:身体と言語の狭間で
暗黒舞踏は、言葉では捉えきれない身体の内奥を表現しようとする試みであり、その本質を完全に言語化することは困難です。しかし、その歴史的背景、創始者の思想、そして独自の身体哲学を深く探求することは、私たち自身の身体観や、ダンスという表現形式に対する理解を深める上で、非常に有益な営みであると考えられます。
この広場においても、舞踏に関する皆様の知見や、それぞれの視点からの解釈、あるいは具体的な経験に基づいた議論が深まることを期待しております。