ダンス文化交流広場

バラタナティヤム:南インドに息づく古典舞踊 - その起源、技術の深化、そして精神性

Tags: バラタナティヤム, インド古典舞踊, 南インド, アビナヤ, ムドラ, ナーティヤ・シャーストラ, デヴァダーシー

はじめに

ダンスの探求は、単に身体の動きを追求するだけでなく、その背景にある文化、歴史、そして哲学を理解する営みでもあります。この「ダンス文化交流広場」において、今回は南インドに古くから伝わる古典舞踊、バラタナティヤムに焦点を当てたいと考えます。バラタナティヤムは、その洗練された形式の中に、数千年にわたるインドの思想、宗教、芸術が集約されていると言えるでしょう。本稿では、バラタナティヤムがどのように生まれ、どのような技術体系を持ち、そしてどのような精神性を内包しているのかについて、深掘りしてまいります。

起源と歴史的変遷

バラタナティヤムのルーツは、古代インドの寺院に仕えた女性たち、デヴァダーシーによる儀式的な舞踊「サディール・アッタム」に求められます。これは神への奉仕、祈り、物語の伝達を目的とした神聖な行為であり、寺院という特定の空間で継承されてきました。

紀元前に成立したとされるインドの舞踊・演劇に関する古典教典『ナーティヤ・シャーストラ』は、バラタナティヤムを含むインド古典舞踊全般の理論的基盤とされています。この教典には、舞踊の技術、表現方法、舞台構成など、詳細な記述が含まれており、後の時代の舞踊家たちに多大な影響を与えました。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、植民地支配や社会の変化の中でデヴァダーシー制度が衰退し、サディール・アッタムも一時的に公の場から姿を消す危機に瀕しました。しかし、20世紀に入り、E.クリシュナ・アイヤル、ルクミニ・デヴィ・アルンデールといった芸術家や文化復興運動家たちの尽力により、サディール・アッタムは「バラタナティヤム」と名を改め、寺院から舞台芸術としての形式へと昇華され、広く一般に知られるようになりました。特に、ルクミニ・デヴィ・アルンデールが設立したチェンナイの芸術アカデミー「カラクシェートラ」は、バラタナティヤムの教育機関として重要な役割を果たし、その普及と標準化に大きく貢献しました。

技術の深層:アダーヴ、ムドラ、アビナヤ

バラタナティヤムの技術体系は非常に精密であり、訓練には長年の鍛錬を要します。その核となる要素をいくつかご紹介します。

1. アダーヴ(Adavu)

アダーヴは、バラタナティヤムの基礎となる基本的なステップと姿勢の組み合わせです。手、足、胴体の動きが特定のパターンで組み合わされており、これらを習得することが舞踊技術の出発点となります。アダーヴには数十種類が存在し、それぞれに名前がついており、リズミカルな朗唱(ナッタヴァーナム)に合わせて練習されます。地面を踏み鳴らす足音(タッタゥ)は、この舞踊の重要な要素の一つです。

2. ムドラ(Mudras)

ムドラは、手のジェスチャーを用いて様々な概念や感情、物語を表現する技術です。大きく分けて「アサンユタ・ハスタ(Asamyuta Hasta)」と呼ばれる片手で形成するジェスチャーと、「サンユタ・ハスタ(Samyuta Hasta)」と呼ばれる両手で形成するジェスチャーがあります。『アビナヤ・ダルパナ(Abhinaya Darpana)』という古典的な舞踊教典には、それぞれ28種、23種のムドラが挙げられています。例えば、トリパタカ(Trīpatāka)は旗や炎、川などを表し、シカラ(Shikhara)は疑問や肯定、弓などを表現するなど、一つのムドラが文脈によって多様な意味を持ちます。

3. アビナヤ(Abhinaya)

アビナヤは、舞踊における感情表現、物語の描写、そして役柄を演じる技術全般を指します。これはバラタナティヤムの最も洗練された側面の一つと言えるでしょう。『ナーティヤ・シャーストラ』では、アビナヤを以下の4つの側面から説明しています。

特に、感情そのもの(バーヴァ)と、その感情が観客に喚起する情緒や美的な体験(ラサ Rasa)の関係性は、アビナヤの核となる概念です。九つの主要なラサ(ナヴァラサ Navarasa)は、愛、笑い、悲しみ、怒り、勇気、恐怖、嫌悪、驚き、そして平静さであり、舞踊家はムドラや顔の表情、身体の動きを駆使してこれらのラサを観客に伝えます。

南インドにおける地域性と流派

バラタナティヤムは主にタミル・ナードゥ州を中心に発展しましたが、地域や師範(グル)によって微妙なスタイルの違いが存在します。特定のグルに師事することで形成される「ヴァージョン(Vazhavur)」や「サムプラダーヤ(Sampradaya)」と呼ばれる流派が存在し、それぞれアダーヴの実行方法、アビナヤの強調の仕方、楽曲の選択などに特徴が見られます。

例えば、カラクシェートラ・スタイルは、その荘厳さ、幾何学的な正確さ、そして精神性の強調に特徴があるとされます。また、ヴァージョンの中には、よりリズミカルな複雑さを追求したり、アビナヤにおける物語性を強く打ち出したりするものもあります。こうした地域や流派ごとのニュアンスを理解することは、バラタナティヤムの多様性と深さを知る上で不可欠です。

精神性と哲学的背景

バラタナティヤムは、単なるエンターテイメントではなく、深い精神的な探求の道としても捉えられています。舞踊のテーマは、ヒンドゥー教の神話、哲学、叙事詩(ラーマーヤナ、マハーバーラタなど)から取られることが多く、神々への献身(バクティ Bhakti)、宇宙の創造と破壊、人間の内面の葛藤などが表現されます。

舞踊家は、身体を媒介としてこれらのテーマを具現化し、観客を神話の世界へと誘います。ムドラやアビナヤを通じて神々の物語や感情を表現することは、舞踊家自身にとっても精神的な集中を高め、自己と宇宙との繋がりを感じるプロセスとなり得ます。最終的には、舞踊を通じて自己を超越し、神との一体化を目指すという思想も根底に存在します。

結びに

バラタナティヤムは、その豊かな歴史、精緻な技術、そして深い精神性において、比類なき古典舞踊と言えるでしょう。本稿ではその一端をご紹介いたしましたが、各アダーヴの名称とその意味、各ムドラが持つ多様な表現、そしてヴァルナムのような主要な演目の構造など、探求すべき側面は数多く存在します。

この「ダンス文化交流広場」において、バラタナティヤムに関する皆様のご経験や知見、あるいは他の古典舞踊との比較など、幅広い視点からの情報交換が生まれることを願っております。例えば、特定の流派における技術的な特徴や、アビナヤにおける感情表現の難しさなどについて、皆様はどのような見解をお持ちでしょうか。