バリ島ケチャ:聖なる声と舞踊の融合 - 儀式、演劇、そして現代への変遷
バリ島ケチャ:聖なる声と舞踊の融合 - 儀式、演劇、そして現代への変遷
バリ島の豊かな文化遺産の中で、ケチャは特に異彩を放つ舞踊劇です。数百人の男性が輪になり、声だけで生み出す独特の音楽「アバンダーマ」に乗せて繰り広げられるその光景は、見る者に強い印象を与えます。この記事では、このケチャが持つ多層的な側面、すなわちその儀式的起源、独特な音楽構造、舞踊的要素、そして聖なる儀式から観光演劇へと変遷した歴史を深く探求してまいります。
起源と歴史的背景:サンヒャン儀式との関連性
ケチャの直接的な起源は、20世紀初頭にまで遡るとされています。しかし、その核となる要素は、バリ島古来の憑依儀式「サンヒャン」に深く根差しています。サンヒャン儀式は、トランス状態に入った踊り手が精霊や神託を伝えるものであり、火を扱うサンヒャン・ジャラン(馬のサンヒャン)などが知られています。ケチャにおいて特徴的な、円陣を組んだ男性たちによるリズミカルな「チャッ、チャッ、チャッ」という声のアンサンブルは、このサンヒャン儀式における詠唱や呪文の要素を取り入れたものと考えられています。
現在のケチャの原型が形成されるには、西洋人アーティストの関与が重要でした。特にドイツの画家ヴァルター・シュピースは、バリ島の伝統文化に魅せられ、地元の舞踊家イ・ワヤン・リモと協力して、サンヒャン儀式から着想を得た新しい形式のパフォーマンスを創り上げました。彼らはこれにヒンドゥー叙事詩『ラマヤナ』の物語、特に猿の将軍ハヌマンの活躍する場面を組み込みました。これにより、ケチャは単なる儀式の要素だけでなく、明確な物語性を持つ舞踊劇としての側面を獲得しました。当初は限定的な上演でしたが、その独特な形態が注目を集め、徐々に広まっていきました。
音楽的構造:アバンダーマの声の響き
ケチャの最も独特な要素の一つは、楽器を一切使用しない、人間の声のみで構成される音楽「アバンダーマ」です。数百人の男性が上半身裸で輪になり、一人がリーダー(プムジャン)となってリズムや変化の指示を出し、他の全員がそれに応える形で「チャッ、チャッ、チャッ」という単語をリズミカルに繰り返し唱和します。
この「チャッ、チャッ、チャッ」の繰り返しは単調なものではなく、非常に複雑なポリリズムと音色の変化に富んでいます。集団全体が織り成すサウンドスケープは、まるで生きたガムラン(バリの打楽器アンサンブル)のように響き、時に激しく、時に静謐に、物語の展開や登場人物の感情に合わせて変化します。リーダーの声の指示や、時折挿入されるソロパート(例:ハヌマンの叫び声、シータの嘆きなど)が、声の波に変化と物語性を与えています。このアバンダーマは、集団の集中力と一体感によってのみ生み出される、極めて高度な声楽アンサンブルであると言えます。
舞踊的要素:物語を体現する身体
ケチャにおける「舞踊」は、西洋的なバレエやコンテンポラリーダンスのような明確なステップや振付体系を持つものとは異なります。中心で物語を演じる登場人物(ラマ王子、シータ姫、悪魔ラワナ、猿のハヌマンなど)は、比較的自由な、しかし役柄を明確に示す身体表現を行います。彼らの動きは、物語の場面や感情を表現することに重点が置かれています。
一方、周囲でアバンダーマを唱える男性たちの集団もまた、重要な舞踊的要素を担っています。彼らは単に座って声を出しているのではなく、身体を揺らし、腕を振り、時には立ち上がって波のような動きを作り出すなど、集団としてのダイナミックな身体表現を行います。この集団の動きは、物語の背景となるエネルギーや情景、あるいは猿軍団としての集合的な力を視覚的に表現しています。彼らの身体表現は、アバンダーマの音楽と一体となって、ケチャ独特の視覚的・聴覚的体験を構成しています。
儀式から観光演劇へ:変遷と現代における意義
ケチャは、ヴァルター・シュピースとイ・ワヤン・リモによってラマヤナ物語と結びつけられて以降、徐々に観光客向けのパフォーマンスとして発展していきました。特に第二次世界大戦後、バリ島への観光客が増加するにつれて、ケチャは夕暮れ時の屋外劇場で上演される人気の演目となりました。
この観光化はケチャの形式にいくつかの変化をもたらしました。元来のサンヒャン儀式としての厳粛さや、限られたコミュニティ内での上演から、多くの観客に見せるための「演劇」としての側面が強まりました。上演時間や構成がより観客に分かりやすいように調整され、炎を使ったスペクタクルな要素が強調されることもあります。
一方で、観光化はケチャをバリ島の経済と文化の中心的な要素とし、多くの人々に雇用と文化継承の機会を提供しました。現在でもケチャはバリ島各地で日常的に上演されており、バリの人々にとっては単なる観光資源ではなく、コミュニティの結びつきや文化的なアイデンティティを確認する重要な手段でもあります。伝統的な形式を守ろうとする動きや、現代的な解釈を試みる試みなど、ケチャは常に変化し続ける生きた文化であると言えます。
ケチャは、古来の儀式が外部からの刺激と結びつき、社会の変化に対応しながら現代へと受け継がれてきた稀有な事例です。その独特な音楽と舞踊、そして歴史的背景を知ることは、バリ島の深い文化を理解する上で不可欠であると考えます。皆様にとって、ケチャの多角的な魅力に触れる一助となれば幸いです。